過去の特別展・企画展
我が愛する「東京の色」 隅田川
明治時代になると、隅田川に面する本所・向島地域には多くの工場が建てられ、近代産業の中心地になっていきました。しかし、当時の隅田川やそこに住まう人々の暮らしを描写した文学作品や絵葉書には、まだまだ江戸の風情を感じさせるものも多く見られます。明治以降、江戸情緒を残しながらも変化していく隅田川周辺の様子を、写真や絵葉書、文学作品などを通じて紹介します。
近代産業と隅田川
隅田川流域、中でも本所地域は、堅川や北十間川、横川といった運河が発展していたこと。そして、広い区画の武家屋敷が多く道も整備されていたことから、近代工業の発展に適していました。
マッチ製造発祥の地 本所柳原
日本のマッチ工業の祖とされる清水誠は、明治3年(1870)にフランスに渡り、マッチの製造技術を修得。帰国後の明治8年(1875)、東京芝三田四国町に仮工場を設け、マッチ製造を開始。翌9年(1876)には本所柳原(元伊勢亀山藩下屋敷、現東京都立両国高校)の地に「新燧社(しんすいしゃ)」を設立し、本格的に製造を始めました。
国産石鹸製造の拠点となった本所・向島地域
明治政府の勧奨によって、各地で石鹸の工業生産が始まりましたが、民間製造の拠点の一つが本所・向島周辺の地域です。明治9年(1876)に徳島出身の堀江小十郎が中之郷村(現墨田区)に鳴春舎(めいしゅんしゃ)を創立。鳴春舎には、のちのライオン創業者・小林富次郎が入店。また、のちに花王石鹸とライオンの石鹸の製造にかかわる村田亀太郎が石鹸職人としての技能を磨きました。
花王石鹸請地工場全景(向島請地町/現墨田区向島)
【写真提供:花王ミュージアム】
墨田区では、“ものづくりの街”として、区内の産業活性化と伝統工芸技術の伝承のため、昭和60年(1985)から3M(マイスター、ミュージアム、マニュファクチュアリングショップ)運動を推進しています。現在、その運動の成果として、かつての工場跡地などに建てられた、花王ミュージアム、セイコーミュージアム、東武博物館に加え、郵政博物館や当館など、産業・企業系の博物館が集まりつつあります。
墨田区にある産業・企業系博物館地図(2016年1月現在)
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文学作品や絵葉書に描写された隅田川
明治以降、隅田川周辺は工場の街として変貌していったが、隅田川やそこに住まう人々の暮らしを描写した文学作品や絵葉書には、江戸の情緒や風情を感じさせるものが多く見られました。
明治37年(1904)、日露戦争の戦費調達や日本市場を席巻していた英米トラストへの対抗などを目的に、たばこ専売制が施行されました。大蔵省専売局は、村井兄弟商会や岩谷商会などの大手製造業者の工場を引き継ぐと同時に、浅草御蔵(明治期の大蔵省用地)に東京第三工場煙草製造所(蔵前工場)を設置しました。
東京第三煙草製造所構内にあった首尾の松を写した絵葉書【個人蔵】
大蔵省専売局の用地は浅草御蔵のうち、4〜6番掘の2万1,936坪だったが、その敷地内には隅田川の名所の一つであった「首尾の松」がありました。