湯浅 淑子(主任学芸員)
『蔫録』は、文化六年(1809)に出版された、たばこの研究書です。「蔫」は見慣れない文字ですが、臭いのある草という意味で、エンと読みます。『蔫録』の編者は蘭学者であり医者でもあった大槻玄沢(おおつきげんたく)で、玄沢の蘭学塾、芝蘭堂(しらんどう)の私家版という形で出版されました。『蔫録』は三冊本で、内容は、喫煙文化の興りの考察にはじまり、たばこの栽培法、名産地、葉たばこの加工、たばこの医学的用法と副作用、過度の摂取に対する処置、喫煙具、たばこ礼賛の詩歌、その他となっています。玄沢は、日本語、中国語、さらにオランダ語で記された西洋の書物まで引用しながら、考察を加え、『蔫録』を出版しました。
<1>版本『蔫録』巻之上より
この図は、オランダ語に訳されたノエル・ショメール著の『百科事典』より引用している。挿絵を描いているのは洋風画家の石川大浪(いしかわたいろう)で、右下のモノグラムも「isikawa」の文字を組み合わせている。
<2>草稿『蔫録』 | <3>草稿『蔫録』 | |
巻之下より | 巻之上より |
たばこと塩の博物館では、この『蔫録』について、文化六年に出版された版本(印刷された本)に加え、手書きの草稿を所蔵しています。『蔫録』の草稿は天明(1781~1789)末成立の二冊本のものと、寛政(1789~1801)末に成立した三冊本の草稿(早稲田大学図書館蔵)の二種類があり、当館所蔵の草稿は、天明末のものです。当館所蔵の草稿を見ると、書名部分は修正されており(<2>)、「蔫」の字はそのままですが、下の文字が胡粉で消され、上から「録」と記されて「蔫録」となっていることがわかります。一カ所だけ修正を忘れており(<3>)、元の書名が「蔫志」であったことがわかります。実際、天明八年に蘭学者が記した『紅毛雑話(こうもうざつわ)』に、「たばこのことは、玄沢が著した蔫志に詳しい」とあり、そこからも、当初は『蔫録』ではなく『蔫志』という書名であったことがわかります。
最初の草稿完成から二十年を経てようやく私家版として出版された『蔫録』ですが、江戸幕府の残した『類集撰要(るいじゅうせんよう)』という法令集には、享和二年(1802)に、一度、出版禁止という判定を受けたことが記録されています。出版禁止の理由については、「たばこ自体は日常の品であるが、幕府でも用いないような品まで詳細に解説している」ため、とあります。『蔫録』では、日本にとどまらず諸外国の喫煙具についても図示しているのですが、その部分が問題視されたと考えられます。諸外国の喫煙具図を削除して出版することも可能であったと考えられますが、玄沢は、外国の喫煙具図をそのままにして、芝蘭堂の私家版として出版することを選択しました。
一流の蘭学者であった玄沢は、たばこが外国由来で、世界中でさまざまな形で用いられていたことを理解し、研究対象としたのかもしれません。また、当時、たばこが医薬品としても用いられていたことも、医者でもあった玄沢の興味関心を引いたと考えられます。さらに、玄沢は愛煙家であったようで、長男の大槻玄幹(おおつきげんかん)は、「父は若い頃からたばこを好み、五十年江戸にいるが、未だに郷里のたばこを吸い続けている」と書き残しています。玄沢にとっては、たばこ研究は趣味と実益を兼ねており、そのため、二十年の歳月をかけ、研究を積み重ねていったのかもしれません。