*漂流民が持ち帰った喫煙具*
- 光太夫のパイプ
- 大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という船乗りは、暴風雨に巻き込まれロシアに流れ着き、十年間をロシアで過ごした後、寛政四年(1792)に日本に帰国した。帰国後、ロシアでの見聞や持ち帰った文物は、『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』としてまとめられたが、『蔫録』には、ここから二点のロシアのパイプが引用されている
(<10>、<11>)。当然、天明(1781〜1789)末の草稿では予定されていなかったが、寛政(1789〜1801)末の草稿では挿入されている図である。
<10>版本『蔫録』巻之中より
<11>版本『蔫録』巻之中より
- 小市のパイプ
- もう二点ロシアの喫煙具が載る。これは、光太夫とともに帰国した小市の遺品と思われる。光太夫一行は、出港時十七人であったが、日本へ帰国することが叶ったのは光太夫、小市、磯吉の三人で、小市は帰国直後、根室で死亡した。その小市を供養するという名目で、寛政六年(1794)遺品が公開された。同七年に名古屋でも公開され、その様子が『ヲロシア器物』として記録されたが、そこに、『蔫録』の図と同じものと思われる喫煙具が図示されている(<12>)。なお、右側のパイプは、他の小市の遺品とともに、大黒屋光太夫記念館に現存している。天明末の草稿には見られないが、寛政末の草稿では挿入されている。
<12>版本『蔫録』巻之中より
*オランダ人に問い合わせた喫煙具*
- 水煙具
- 玄沢とオランダ人の対話記録によれば、寛政十年(1798)、玄沢は、将軍に拝謁するために江戸に滞在していたオランダ人一行を訪ね、この喫煙具の図を見せながら、用途などについて質問した。オランダ人の答えは、「アメリカやイギリスの人が用いる」「フッカという名である」であった。実際には、これはアジアで使用される水煙具であり、「アメリカやイギリスの人が用いる」というオランダ人の回答は誤っている。玄沢は、インドムガールのものであろう、と考証しているが、オランダ語の書物の挿絵などを見ており、外国の喫煙具の使用方法についても、オランダ人より正確に把握していたと考えられる。天明末の草稿にも、寛政末の草稿にもなく、版本で挿入された図である。
<13>版本『蔫録』巻之中より
<14>草稿『蔫録』巻之下より この図は、フランソワ・ファレンタイン著の『新旧東インド誌』から引用している。