せんごうの発達
海藻の利用から塩浜、イオン交換膜法へと発達した「採かん」に対し、かん水(濃い塩水)を煮つめる「せんごう(煎熬)」の技術も、製塩土器からさまざまな塩釜へと進歩してきました。明治以降、欧米の科学技術が導入されると、日本の実態に適した各種の塩釜が工夫されました。それは、いったん作り出した熱を効率よく上手に使う技術で、より少ない燃料で塩の結晶を得るための工夫でした。
◆在来の塩釜(〜江戸時代)
在来の塩釜は地域によって異なり、土釜や石釜、鋳鉄釜、錬鉄釜、あじろ釜など、さまざまな材質のものがありました。これらの釜の構造では、燃料を燃やしてかん水(濃い塩水)を煮つめるときに、煙と水蒸気が熱を帯びたまま逃げていきます。
◆洋式平釜(明治中期〜大正末期)
石炭を燃やして出た煙を、煙突から排出する前に煙道に導いて、次に煮つめるかん水を煙の熱で温める「予熱釜」を設けたものです。冷たいかん水から煮つめ始めるよりも燃料が少なくてすみます。大正末期には「十州塩田」のほとんどが、鉄製の洋式平釜(ようしきひらがま)となりました。
しかし、この方法では、加熱された水蒸気は大気中に逃げています。
◆蒸気利用式塩釜(昭和はじめ〜30年代)
結晶釜から出た水蒸気を逃がさずに、パイプで予熱釜に導いて有効利用できるようにしたものです。平釜に比べて燃料である石炭の使用量が約半分に節約され、しかも大量の塩が生産できるようになりました。昭和初期から昭和30年代にかけて広く使われました。
◆真空式蒸発缶(昭和2年〜現在)
水蒸気の熱を利用しても予熱釜を温めるだけだった蒸気利用式塩釜に対し、真空式蒸発缶(しんくうしきじょうはつかん)では、「水は、気圧の低いところでは 100℃以下で沸騰する」性質を応用して、水蒸気の熱だけで、次々にかん水を沸騰させ、塩を採ることができます。大きな蒸発缶が3〜4本つながり、連動して沸騰していくため、「多重効用缶」とも呼ばれます。製塩の分野では、19世紀末にアメリカで始められ、20世紀初期には欧米各地に広まりました。日本では、昭和2年(1927)に最初の工場が完成して以来、次々に導入されました。現在、イオン交換膜を利用して作られたかん水は、すべてこの真空式蒸発缶で煮つめられています。
真空式蒸発缶(平成10年 ナイカイ塩業)
◆真空式蒸発缶の構造
1) | 1号缶の水蒸気の熱が2号缶を温め、2号缶の水蒸気が3号缶を温め…と、順に温めていく構造です。 |
2) | 4号缶の水蒸気に海水をかけて冷やし、蒸気が水に戻るときに体積が小さくなることを利用して、4号缶の中に真空に近い状態(0.07気圧)を作り出すことができます。 |
3) | 4号缶でできた真空に近い状態を利用して、3号缶、2号缶の気圧も下げ、適切な気圧にコントロールします。 |
4) | 気圧がうまく調整できると、1号缶を沸騰させるために作り出した水蒸気(2気圧、120℃)の熱だけで、全ての蒸発缶を沸騰させ、塩の結晶をとることができるため、燃料が大幅に節約できます。 |
※ メンテナンスなどで運転を停止した後、再開する時だけは真空ポンプを使います。